2。

2008年2月22日
今日は2008年2月22日。
22歳の2月22日、私は死にそうになった。
私は2の数字に呪われてる。
くだらないけど、そう思うしかない。
今日は、悪夢を見た以外には何も起きなかった。
あと6時間で今日が終わる。
きっと大丈夫。

母。

2008年1月21日
母と話した。
その場にいた彼は酔っていて、愉しそうにおしゃべりをしていた。
私は、母の鬱加減を知っていたので、ヒヤヒヤしていた。
いつもの強気な発言をする自分を演じながらも、いつ母が機嫌を損ねるのかと内心ビクついていたのだが、それに関しては誰も気付くことはない。
母が帰った後、彼は「海月は俺と母にだけはハキハキ物を言えるな」なんて言っていた。

私は母が帰ってくれてホッとした反面、次の日の彼がいない時に何か言われるのではないかと、また心臓を高ぶらせた。
彼と子供と寝床につくと、私は悲しくなってきた。
原因はわからなかった。
子供を寝かしつけた頃には、彼も鼾をかいて寝入っていた。
私は彼の腕にしがみ付いて寝ることができた。

要するに、私はいつまでも両親の顔の色を伺って生きていくしかないのかもしれない。
分かっていても、それとは離れる事ができずにずっと縛られ続けるのだろう。
両親が亡くなったとしても、それは変わらないのかもしれない。

脳。

2007年12月10日
近頃、アルコールを常飲するようになっていた。
アルコール依存症は治るモノではないと聞いている。
身をもって痛感させられた。

アルコールの入った私は、普段よりも数十倍も明るく穏やかで気立てのいい性格になる。
しかし家族が就寝してしまうと途端に孤独感に襲われ消えたい衝動に駆られる。
そういった時は、心の傷を癒すように暴食して寝床につけば、大抵は少しの後悔とまた少しの安心感を抱いて眠ることができる。

飲酒した次の日は、昼間から体の怠さ、口の渇き、舌に異物の付着感、嫌悪感などを感じる。
そして頭の回転は物凄く遅い。
私が嫌悪感を抱いているところへ、上の娘や両親があれこれ話をかけてくると、そこには第二の【私】が出現してしまう。
【私】は、頭の中だけでどうしょうもない悪態をついている。
私はそれがとても耐えがたく、何よりもストレスに感じるのだ。

それは周りの誰のせいでもなく、私自身のせいなんだ。

先日、彼の実家の両親と外食をした。
2週間ぶりの再会で、私は緊張と人見知りを隠したくてアルコール飲料を注文し飲んだ。
それは、その場の私なりの防御策であり、なにも楽しみたくて飲酒したわけではない。
他人に会って、会話を弾ますことのできない自分は、他人には迷惑だろうし、私自身にとっては格好が付かない。
「いい大人が会話もできない」なんて思われたくない。
思ってないかもしれない…
それは被害妄想かもしれない…

アルコールを常飲し始めた今では、的外れなことばかりが頭を過ぎる。

確かに…脳を麻痺させて何が楽しいのだろう。

危ない。

2007年10月19日
生きづらい。
ものすごく生き辛さを感じる。

偏頭痛は耐え難いけれど、毎日やるべき事を怠りはしない。
生きる意味を見つけられはしないけれど、死にはしない。
子供を愛する事はできないけれど、虐待はしない。
自分を認める事はできないけれど、自虐行為はもうしない。
楽しい事はないけれど、毎日少しずつ笑う。
生き辛いけれど、生活をしている。

人に接すると、自分の生き辛さを感じる事に拍車がかかる。

つい先日、半年ぶりに知人に会った。
彼女は、私が知っている限りで、私の人生よりレベルが劣っている。
それなのに彼女は、私より遥かにレベルの高い笑顔を作って見せた。
本当に幸せそうに見えた。
私は、とにかく彼女を見習いたいと思った。

小さな事で一喜一憂する所を。
以前の私なら、「小さな事で一喜一憂する人等」を馬鹿にしていた。
本当にバカなんだ。
世界が小さいだとか、脳みそが小さいだとか、客観視できないアホだとか…
とにかくバカにしていた。
でも、今は違う。
彼女達こそ優秀な人間だ。
人間こそは小さな事に一喜一憂しなければ生きていけない。

ああ、若き頃の私は、小さい事に喜びと悲しみを得ていたようだった。
しかし、いつの日か私は変わった。
「喜び」には不感症に、「悲しみ」には敏感になった。
それは、「大人」になった…のだろうか。
それはきっと、母親の境界性人格障害を受け継いだ瞬間だったのかもしれない。

まったく悲しい。

でも、今は久しぶりに酒に酔っているので気分がいい。

澄。

2007年6月11日
喜怒哀楽が鈍感であれば、私は上手く生きていけたに違いない。

2007年6月11日
生きる事には意味がない。
死ぬ事には…死んでみなければ判らない。
面倒くさい。

家族?

2007年5月26日
娘が家に居ない。
私の機嫌の善し悪しが激しいのが原因だ。
典型的なBPD。
これは治しようがない事実だが、せめて人に迷惑をかけないように生きたい。
娘の人生を狂わせないようにしたい。
娘の幸せが何なのか判らない私は、過去に戻ってやり直したいと後悔するばかりで、何の進歩もない。

私自身は以前と比べてみれば、人並みに生活ができるようになった。
ただ過去の痛々しい私を見て育った娘との接し方がわからない。
お互いにどこか遠慮しあってしまう。
心を開いて向き合う事が大事なのだろうが、それが上手くできないでいる。
何から始めよう…。

変。

2007年5月26日
性欲を失った。
女性は出産をすると性欲が消え失せてしまう事が多いらしい。
性欲を失った私は、彼に対しての距離感や感覚が少しずれてきた。
今や彼は、私にとって家族であり愛しい人ではなくなった。
いずれ性欲が戻ればまた彼を愛しく思えるのだろう。

手紙。

2007年5月16日
以前通っていた病院の院長先生が去年、本を出版されていた事を昨日知った。
すぐにネットで注文した。
読み終わったら手紙を書いてみようかと思う。

二つの生。

2007年2月26日
男の子を生んだ。
失敗した。
第一子の娘にどれだけ愛情が薄かったのかを思い知らされた。

逃亡。

2007年2月26日
恐怖や不安、罪悪感から一瞬でも逃れたくなる。
たとえ後悔するとしても、偽りの安らぎを求める。

反応。

2006年9月3日
彼は、セックスしている時の私を好きだと言う。

『普段は反応が薄い』と言った。
話掛けても相槌ばかりでつまらない。
でも、セックスの最中は『好き』とか『求めてる』とか『気持ちがいい』とか…全部がよく伝わってくるらしい。

そんな筈はない。
私は、メールは毎日5通以上送るし電話も用がないのに1回は必ずかける。
帰ってきた時は玄関まで迎えに行ってキスするし、夕飯も作るし洗濯もするし掃除もする。
彼が寝転んで本を読んでいると纏わり付くし、お風呂も一緒に入るしトイレも覗きに行く。
スロットだって煙草の煙が辛いけど付いて行くし、ドライブだって車酔いが辛いけど行く。
彼の仕事の話も聞くし笑うし泣くし勝手な妄想で怒るしよく食べるしよく寝るし。

足りないモノがわからない。

だけど彼の切ない顔は好きだからいい。
可哀相だけど私はすごく嬉しい。
泣けばもっと可愛いのに。

頭痛。

2006年9月3日
偏頭痛が酷い。
先月、カロナール1週間分が処方された。
効き目は全くと言っていい程なかった。
今月、ゾーミッグ25mgが10錠処方された。
1週間で2錠服用した後、副作用が気になったので妊娠中の服用危険性を調べてみた。
FDA薬剤胎児危険度分類基準はCだった。

…もう飲む気がしない。
『薬は、なんでも飲まないに越した事はない』と医師は言っていたものの、少し騙された気分だ。

偽家族。

2006年8月14日
大人はなんでも解った風な事を口にする事が多い。
悟ったつもりでいるのかもしれないが、全然解っていない。
私は大人のその言葉を尊敬の眼差しで聞いた振りをし続ける。
大人は勝ち誇ったように、どんどん鼻息を荒立ててくる。
まったく気持ちの悪い生き物だと思う。

先日、未来の偽親が泣きついてきた。
かと思ったら説教が始まった。
酒が入っていたせいか、息子(彼)がいない所では偉そうになる。
私は一言も逆らわないどころか、意見すら述べないから大人はやけに興奮してくるのかもしれない。

ところで、偽親のやり方は卑怯なんだ。
そこが気に入らないので、私は私なりに卑怯な手口で自分の居場所を守った。

こんなイザコザにうんざりした私は、第二子を生む決心が鈍った。
彼との結婚だって嫌になった。
偽家族なんて私には必要ない。
中期中絶という手もあるが、もう、なんだか胎動のようなモノを感じている。
それは気のせいかもしれないけど…。

彼の前で【生みたくない、結婚したくない】と泣き喚いたところで何も解決しない事はわかっていたが、そうしてみたかったので試してみた。
彼は久しぶりに真剣な悲しみを露にした。
私は驚いたと同時にすごく嬉しくなったんだ。
その瞬間すごく幸せな気分になった。

そして次の日も次の日も私は泣いてみたが、彼が悲しい顔を見せる事はなかった。

結局、彼の悲しい顔に中絶する決心は鈍った。

第二子。

2006年6月25日
毎日、気分が悪かった。
1回目の妊娠検査では陰性だった。

断食、過食嘔吐を繰り返しているせいかと考え、内科に行く事にした前日、やっぱりどうしても気になって2度目の妊娠検査薬を試してみた。
結果は陽性だった。
すぐさま彼に告げた。
彼は「籍入れて生む」と言った。
私はとにかく胸がいっぱいになった。

彼は信じられないくらいに、よくやってくれている。
娘は第一反抗期なのかすごく手がかかるようになった。
私はとにかく24時間ずっと悪阻が辛くてノイローゼになりそうだ。

私自身が二人の子供を育てていく事が可能なのか正直不安だけれど、彼なら大丈夫みたいだ。
彼は3年前より大分大人になった。
彼が「大丈夫」というのなら大丈夫なんだと思った。

恩人。

2006年5月16日
娘の誕生祝にクルージングディナーをした。

海が見えた。
遠くて光って見えるたくさんの明かりが、黒い海を輝かせていた。
私の気持ちは、波のように穏やかだった。
テーブルを飾るキャンドルの灯が、彼の笑顔を揺らした。
鮮やかな色彩溢れるディナーを目の前に、娘は目を輝かせていた。
それらを観賞しながら飲むワインは絶品だった。

近々、先生に話をしに会いに行こうと思う。

甘い。

2006年4月25日
家のチャイムが鳴った。
娘が風邪をひいて学童保育を休んだ日だった。

玄関を開けると、見た目は二十代半ばの女性が立っていた。
彼女は何か遠回しな話を始めた。
私は彼女の言わんとしている事がわからなかったが、頷き話を聞いていた。
彼女の話し方は、営業職は初めてなのだろうと思わせた。
彼女はとにかく本題に入るのが遅くて、私を苛付かせた。
しかしそれは、以前就労していた頃の私とどこか重なった。

営業という初めての職につき、私はオドオドしていた。
顧客の前でもオドオドしている為、客にも上司にも指摘された事は何度でもあった程だ。

彼女の様子は、その時の私を思い出させた。
私は急に彼女に親近感を覚えた。
彼女が売ろうとしているその商品(本)の価値には全く魅力を感じなかったが、彼女の一生懸命さに魅力を感じた。
私は、彼女の一生懸命の姿勢にお金を払って、その本を買った。
彼女は嬉しさが溢れる程の笑みを見せてくれた。
最後に『頑張ってください』の一言を添えてドアを閉めた。

彼女が帰った後、少し後悔した。
私の払ったお金は、彼が懸命に働いたお金だという事を忘れていたからだ。

彼が帰宅して、私は真っ先に謝った。
彼は『そういう海月の優しいところが好きだよ』と言ってくれたが、それはそんなんじゃない。
人に優しいのではなく、自分自身に甘いだけなのだと思った。

わからない。

2006年4月18日
母親の不機嫌な日々は、3日続いた。

兄の離婚騒動で母は不機嫌になった。
母から聞いた話では、義姉から母宛てに朝電話があったらしい。
『夫(兄)に殴られた。実家に連れて帰ってください。』

母はこれを私に告げる時、泣いていたので文章が滅茶苦茶で私にはよく伝わらなかった。

しかし母は、義姉が何を言おうと兄の味方だという事を、私は知っている。
『お兄ちゃんが可哀相だ』と泣きじゃくっている。
泣くのは母の特技だ。
そして…
『お兄ちゃんが可哀相だから金を貸してくれ。借りた金をお兄ちゃんに渡したい。』と私にせがんでくる。
これもいつもの事だ。

私はとにかく母の話を聞いてやる。
もしこの時、私が一言でも口を挟んだりすると、母は逆上して手に追えなくなる。

しかしこの日、私は仕事をしていたので、一旦電話を切って後で架けなおす事にした。

夕方過ぎ、母は不機嫌そうに電話に出る。
兄と義姉と再度電話で話したそうだ。
兄の言い分は『嫁(義姉)は自分(兄)に対しての怒りを子供(姪)にあてるから、それを指摘したら喧嘩になった。大した事はない。』
義姉の言い分は『離婚届にもサイン済みなので、金だけくれたらすぐにでも離婚したい。すぐに実家に連れて帰ってくれ。』の一点張りだそうだ。

元々、兄は以前に一度浮気をした事が発覚しているし、会社が倒産してフリーター状態になっている。
まず、浮気の理由としては簡単だ。
義姉がセックスを拒んでいるからだ。
私は、この場合の兄の浮気は仕方のない事だと思うが、発覚されないように上手くやる事が礼儀だとも思う。
会社倒産の件にしても、兄はツイてない男だ。

とにかく母は、兄の不幸で私に八つ当たりをする。
私は幼い頃から母のストレス発散の道具だった。
兄を平手で殴っている場面はあまり見た事がないが、父の帰りが遅くて母が不機嫌な日、私はよく母に平手打ちを食らっていた。
例えば母との会話の中で、私は母が不機嫌な事を分かっているで極力物の言い方を優しく返しているつもりだったが、何が気に入らないのか『口答えするな!』と叩かれた。

母の口癖は『海月の学生時代の生活はまだ良かったけど、お兄ちゃんの頃は貧乏だったから、お兄ちゃんには我慢をさせてばかりだった。』
兄とは3つ違いだったし、学校も重なっていたし、私には違いがよくわからない。

先日も母は言う。
『やっと孫(私の娘)が幸せになったと思ったら、今度はまたお兄ちゃんが…可哀相で…』
私の名は一つも出てこないし、出た時には私は問題児扱いだ。
『海月はいつも勝手な事ばかりして、私(母)を助けてくれない。』

どうでもいいが、不機嫌な時に孫(私の娘)に当たるのはよしてほしい。

私は母に似ないように精一杯、娘を愛してあげたい。
娘には、私のような冷たい人間になってほしくない。

まだ『愛する』って意味はよくわからないし面倒くさい気もするが、『愛しい』だったら最近は少し解るような気がする。

≪育児は面倒な事ばかりだが、娘の事は愛しい…かもしれない≫

娘との間で、まだハッキリとわからない部分は多いが、以前と比べれば確かに何かが良くなってきているように思える。

しかし昨夜は、いつものように娘と風呂に浸かっていると、娘は横目で私の腕の傷を見ていた。
触れてはいけない事のような気がしているのだろうか、娘は何も言わなかった。
そして『今日は、ばぁばん家に泊まりたい』と言うので、母の家に泊まらせる事にした。

私の考え過ぎなのだろうか。
少し神経質になっているのかもしれない。

短編。

2006年4月10日
鏡を何日も見ない日はありますか。
醜いという罪悪感に捕らわれたくなくて、私は鏡を手にしません。

本を読まない日はありますか。
白い、もしくは黒い隙間を埋める為に本を読みます。

それだけです。

なにか。

2006年4月7日
引越しが終わって、新居にも専業主婦みたいな生活にも慣れてきた。

子供は小学校に入学して、『学校は楽しい?』と聞くと『普通だよ』と答える。
つまらなくなければいいと思う。

元親友から1年ぶりに連絡がきた。
縁を切る宣言をされてから約1年ぶりだった。
他愛もない話だ。
『あの頃は解ってあげられなくてごめんね』だとか『元気にしてるか』とか。
私も他愛のない話をして返事を返した。
私にとって"1年"は永過ぎた。

今日もメールが来た。
結婚式場を探しているという報告だった。
少し嫌な気持ちになった私は嫌な女だと思った。

今の私は幸せだと思う。
不満は何もない。
可愛い娘がいて、夫のような彼氏は毎日同じ時刻に帰ってくる。
家族で夕飯を食べられて、休日には出掛ける。
メル友だった人達ともメールをしなくなった。
罪悪感を感じたくなくなったからだ。
子供の笑顔も彼の話も私の心も偽りは何一つなくなって、私は幸せになった。

この残る蟠りは、きっと私自身の問題だ。
生き甲斐を感じられないのはなぜだろう。
本当に主婦になったんだと実感する。
でも専業主婦じゃいられない。
自分の為にも何か始めなければならないんだと思う。

たぶん。

それで、生気を取り戻せる。
表情も変われる気がする。

なにか。
わからないけど。

なにか。
みつけるんだ。

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